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湘南台アーカイヴの広田さん


 大好きな湘南台もその昔は田んぼ、畑、芋畑、竹林、木々の生い茂る中の一本道、と今では想像するのも難しい湘南台でした。また、その頃は六会と呼ばれていたところでもあったのです。
昔の湘南台を探って、六会と呼ばれていた湘南台を知る方を訪ねてみたいと思います。
最初の登場は、広田靖夫さんです。自称“土人”と言って憚らない六会に生まれ、六会・湘南台育ちで、今の湘南台の発展に貢献している広田さんに、昔の湘南台についてお話をお聞きしたいと思います。
(聞き手・星谷けい子)


広田さん 湘南台というのは昔は六会なんです。亀井野石川円行西俣野今田下土棚の集落だったんです。小学校はひとつしかなかったんです。六会小学咬。
で、昔は星谷さんのところは田んぼだったんです。前の道路は、2〜3メートルの川が流れていたんです。今は、暗渠になっています。引地川に大きな下水管で流れ込んでいますね。
―引地川に流れていますね。
広田さん 小田急線も土盛りをして線路を通したんだね。
うちの曾爺さんが村長をしていて、小田急線を誘致するために周辺の地域と綱引きをしていたんですよ。昭和4年だったかな。本来は海老名の方から大回りをして藤沢に入ることになったんです。
―曾爺さんのお陰だったんですね。
広田さん 一生懸命にやったという話はあります。
―江ノ島や藤沢は昔は別荘地のようなところだったようですね。昭和2年に芥川龍之介が亡くなった時期ですね。そうしますと、広田家一族で湘南台を盛り上げて来てくれたんですね。鉄道を誘致する事は、町の発展に重要ですからね。そうしますと、湘南台は竹やぶがあるような田んぼの土地ですか。
広田さん 竹やぶは、ローソンがあるその裏のマンションがあるあたりは竹やぶでした。梅田という土地でね。エスタテラ湘南台までが山林だったです。右側が竹やぶで、左側が木がうっそうと茂って、その間が通学路だったですね。寂しいところでした。一人で歩くのは怖かったです。今は、お稲荷さんがあります。あそこがそうです。あそこに小さな川が流れていてね。


―その頃の長後は大きな町だったんですか?
広田さん 長後は宿場街だったんです。旅館などがあってね。
ここには道が三つしかなかった。藤沢に行く道、用田に行く道、大山に行く道とね。
湘南台にいすず自動車の工場が出来たんですけど、その前は、海軍の電波測量学校があったんです。そこには20万から30万人、ものすごい人がいたんです。
―20万人ですか?
広田さん はっきりしないんですが、電波測量学校に何万の人が来ていたんです。そこが膨大な面積でね。それが全部いすず自動車に買収されたんです。当時、デンソク、デンソクと言っていました。ですから、いすず自動車は広大な土地があったんです。
―日本大学も古いですね。昭和12年ですね。
広田さん 古いですね。最初は、長後を探していたらしいんです。で、長後の方が駄目になって、六会になったそうです。
湘南台駅もはじめは長後に、相鉄も、地下鉄も行く予定があったんですかで、地元が反対をしたので今の湘南台に来たんです。
―地元も立ち退かなければ行けなくなるので、反対をしたんでしょうね。ちょっとした歴史ですね。
湘南台駅の土地はどうしたんですか?

広田さん 当時、市会議員で野渡一平さんという人がいまして、湘南台駅前薬局のご主人。話では、無償提供したということです。本当はもうちょっと長後よりになるはずだったです。それが土地を提供をするということで、今のところになったんです。それまでは、駅は芋畑だったんです。駅がどこに出来るかというので、この時も綱引きがあったんです。
―土地を提供するというので今の湘南台が出来たんですね。太っ腹だったんですね。


広田さん 小学生の時、六会小学校まで、山道とか、畑とかの中の一本道をとことこと歩いて、通学していました。
終戦前に、そこを4、5人で歩いているところをアメリカ軍の艦載機に狙われたんです。上からだと大人か子供か分からなかったでしょうね、低空でダダーッと、来ました。その前に、馬を引いた電測の人、4、5人が木の下で騒いでいて、それが、早くこっちに逃げて来い、と言っていたんですね。その後に、ダダーッと機銃掃射をされたんです。
―怪我をした人はいたんですか。
広田さん 怪我をした人はいなかったんですけど、そんな思い出はあります。
ーそうしますと兵隊さんもこの地域にはたくさんいたんですね。
広田さん 兵隊さんの偉い人は宿舎でなくて、一般の家庭に住んでいたんですね。
―将校クラスの人は一軒家にいた訳ですね。そうしますと、20万、30万人の人がいたんですか?
広田さん そうですね。1万、2万という人ではなかったですね。
―そうしますとこの辺は空襲もあったんですか。
広田さん 昔、小学生1年の時に終戦なんだすけど、空襲警報が鳴るんですよ、鳴った時には爆撃機は頭の上です。レーダーがない時代ですから、ラッパのような大きな聴音機というやつを上空に向けて音をひろっているわけです。そういう状態ですから、空襲も早いです。サイレンが鳴るんですけど、鳴った時には頭の上なんです。
―六会小学校にも防空壕があったんですか。
広田さん あります。サイレントが鳴って防空壕に飛び込むんです。
―そうしますと、亡くなった人もいたんだすか。
広田さん エピソードがあって、戦前、湘南高校に英語の教師がアメリカから赴任で来ていて、その人が国に帰って、藤沢、鎌倉というところは軍事施設もないので、爆撃は最後にしてくれよ、という話があるんです。平塚までは爆撃をされています。
―戦争を体験してくると、感じ方が変わって来ますね。
広田さん 家の下にトラックが入れるくらいの防空壕があって、戦後はそこが遊び場。今は入口からどのくらいだろうか、ある程度は埋め戻されています。そこを分譲するにあたって、ブルドーザーで削ったんです。あまり削ると防空壕が出て来ちゃうので途中で止めているんです。そうとう長いですよ。防空壕が中でつながって迷路です。家の下の方が食料庫かな。戦後は缶詰なんかが残っているのです、ピーナッツだとかミカンだとか。こどもだから取れないんだけど、大人達が隠して置いたものをクスねてきたりしてね。お砂糖なんかも藁の、かわすっていうやつの中に。これを煮詰めるとまたお砂糖が取れるって言うので、そんなことをしていましたね。
―なんか宝箱みたいですね。
厚木基地というのは、戦中戦後というのはどうなんですか。
広田さん 戦後は、マッカーサーが来てますでしょう。それこそ滑走路の下は工場があるんです。大和の街の地下あたりまでつながっているんです。
―そんなに広大なトンネルがあるんですね。
広田さん 戦後あそこに物をとりに行ったですよ。飛行機の風防を、今で言ったらプラスチックかな、それを擦るといい匂いがするんです。自転車でいちゃ、結構とって来たんですね。
―自転車でどのくらいで行けます。
広田さん 昔の重たい自転車で1時間は掛かったと思います。
―どんな感じで厚木から飛び立っていたんですか。
広田さん 日本の飛行機はそんなに見たことがないんです。戦後、米軍のグラマンとか胴体が二つの双胴機P-38とかロッキードとかね。終戦直前はね、空が黒くなるくらい東京に向けて飛んでいましたね。はじめ、富士山を目指して、それから東京に向かって飛んで行くんですね。
―その頃は246号の道路はあったんですか。
広田さん ないです。
―16号は横須賀、横浜、八王子とあるわけですね。
広田さん 軍用道路ですね。
―そのころの子供のあそびって言うと?
広田さん それは戦争ごっこしかないですね。山にいってね。ターザン見たいですね。
―引地川では魚などは獲れたんですか。
広田さん 獲れました。うなぎとかね。私の少年時代は、プールは引地川です。
―そのころはきれいだったんですね。
広田さん そんなことはないです。今の方がきれいかもしれない。底が土だからね。今は底が見えるでしょう。でも、あそこは夏の遊び場でした。
―ありがとうございました。

[湘南台アーカイヴ資料]

六会村の歴史
わたしたちの住んでいる六会は、どんな歴史があるのでしょうか。六つの村=六会 それぞれの地域に住んでいる方に、貴重なお話を伺い、資料を提供していただいたものをまとめてみました。

六会村
「六会村」は、相模台地のほぼ南端に立地しています。原始・古代の集落は、遺跡・遺物の所在からみて、境川と引地川の両河川の周辺に散在していたようです。その後、この地域のことが古い書物にみられるのは、平安時代末の伊勢神宮所蔵の古文集「天養記」の、大庭御厨の東の境である俣野川(境川)の名前と、鎌倉時代の武家日記「吾妻鏡」の俣野という地名です。
江戸時代になると、天領地(幕府直轄地)または、大名・旗本の知行地では、各村ごとに領主を置いて、行政事務を司っていましたが、一村は必ずしも一人の領主とは限らず、数人の領主によって分割支配されていたこともあったようです。「相模国風土記稿」には、六会村のことが書かれています。村は村高に応じて助郷役が課され、亀井野・円行・石川・西俣野は藤沢宿の助郷役を務め、下土棚は長後村とともに、戸塚宿の助郷役を務めていました。
明治時代になると、廃藩置県(1871年)大小区制と呼ばれる地方制度の後、1889年(明治23年)の町村制の施行により「六会村」となりました。
村役場が小学校のとなりに設置され、六会村の行政事務を司るようになりました。当時は、農業が村民の八割を占めていました。明治30年の六会村の総人口は4200人、戸数は550戸でした。(平成2年6月1日現在六会・湘南台地区‥‥世帯数16,166戸、住民45,125人)直線距離、東西 4,216メートル、南北 5,836メートル。
1942年(昭和17年)藤沢市に編入されるまで村制が続きました。

亀井野
亀井野は、昔は広大な原野でした。豊臣秀吉が1590年(天正18年)に出した制札(禁止することを書いて、神社や道に立てる札)に「亀井野」の地名が書かれています。「亀井野」という地名は、この地に住んでいた源義経の四天王の一人、亀井六郎重清が不動王を祀って崇拝していた(亀井神社由緒)ことから名付けられたという説と、地形が亀に似ているという象形地名ではないかとする説が言い伝えられています。
雲昌寺が今田から移転した頃、人々もこの亀井野の地に井戸を掘る技術を覚えて住み始め、大きな欅の木を植えて強風から人家を守りました。
江戸時代から「塩市」と呼ばれる市が雲昌寺近くで月六回開かれ、最初は横浜市の金沢から運ばれた塩が売られていましたが、次第に海産物や雑貨なども売られるようになりました。西俣野の「金沢橋」という名前は塩の道のなごりです。このような市は、亀井野の他に用田でも開かれていました。
市には、亀井野の人ばかりでなく、俣野や横浜市の人も集まり、交流の場になっていました。

今田
豊臣秀吉が小田原の北条氏を攻めた時に出した、味方の軍勢の乱暴を禁じた制札があります。その中に、「今田・亀井野」と書かれていたことから、この頃には、今田村が存在していたようです。
新編相模国風土記稿に「今田村、江戸より行程13里余、旧は亀井野村を合して一村なりと云う、分村の年代詳ならず」と書かれていることから、今田・亀井野は、昔は一村だったようです。現在、亀井野にある雲昌寺は、建保年間(1213〜18年)今田で創建され、「瑞龍寺」と言われていました。1596年の水害でお堂が流された為に、現在の所に移され「雲昌寺」と言われるようになりました。
しかし、今田は西俣野と地理的条件や社会的条件がよく似ているので、俣野郷の一地域、西俣野と合わせて一村とする説もあります。
今田を流れる境川は、河川改修が行われるまで、しばしば決壊して人々を悩ませていましたが、肥沃な土砂も運ばれてきたので、おいしいお米が採れたという利点もありました。今田とは、新しく開墾された土地=新田として名付けられました。
第二次世界大戦後の土地改革が行われるまで、家・土地は長男がすべて受け継いで、次男・三男達は分家して長男の家を手伝っていました。また村では、部落区長が村全般の事に権限を持っていて、農作業の休みを大きな法螺貝で知らせていたこともありました。
その後、区画整理が行われ、水田は梨・ぶどう・栗の観光果樹園に変わる一方、急速に市街化されていきました。

下土棚
鎌倉時代の下土棚は、現在の長後・高倉・上土棚・円行とともに、渋谷庄司重国の支配下にありました。1590年(天正18年)三河の国より徳川家康に従って来た竹尾三九郎は、地頭を命ぜられ、下土棚を支配するようになり、七代目の竹尾善左衛門元貞まで続きました。その墓碑の中に「相模国土棚郷」と書かれ、「土棚」という地名が残されている最古のものとして、善然寺に残されています。その後、1809年(文化6年)頃には、松平築前守及び遠山清右衛門の、幕末には江川太郎左衛門の支配下に属し、明治維新を迎えることになったのです。
下土棚という地名は、引地川の長年にわたる浸蝕作用で関東ローム層の赤土の断崖が数メートルに及び土の棚のようになったという地形的なことから「土棚」と呼ばれるようになったとする説と、源氏と平氏の合戦の際、大庭景親と渋谷重国が戦って引地川の水を堰止めた為に、一帯が湖のようになり、水が引いた後も土砂が棚状に残ったという史実からする説が伝えられています。
昭和19年6月、下土棚の西部に海軍電測学校が建てられ、20〜30万人の海軍兵士が駐留しました。戦後、跡地は地主に返還され、昭和36年には、いすゞ自動車工場が建設されました。
皆で協力して、米やさつまいもを作って共同出荷していた時代から、個々の利益を追求して、経営者の才覚で資本投下する時代へと農業も変化していきました。
善然寺では、明和・天明の頃から天治の頃まで六代110年間、歴代の住職が子弟の学問の指導にあたっていました。その子弟が住職を慕い建てたのが筆小塚です。
1896年(明治9年)、下土棚学校が渋谷ヶ原26番地に開校され、下土棚・円行・今田の子ども達が通っていましたが、約2年後に長明学校に吸収されました。

円行
円行は農業を主に営む純農村地帯で、引地川を挟んで田畑が広がる緑の多い地域でした。しかし、一帯は区画整理により急速に市街化が進み、地名も大部分が湘南台と変わりました。
円行という地名は、南北朝時代(1330〜90年)に、引地川沿いの平坦地、梅田と呼ばれる所に円行寺という寺があり、村民の信仰を集めていたことから、寺の名前をとって「円行」と呼ばれるようになったようです。座間入谷の円教寺は、室町時代から続く座間鍛冶鈴木家の菩提寺で、初めは円行寺といい、藤沢在の円行にあったといわれています。(円教寺寺伝より)区画整理の時、東谷(湘南台四丁目)から室町時代の多数の板碑や五輪塔が出土しました。
円行の水田も湿田が多く泥沼のようでした。昭和30年の頃、余分な山からの湧き水を、田んぼの中に埋められた配水管を通して川へ流す暗渠排水事業が行われたことで、水はけのよい田に変わりました。
引地川の円行堰あたりは、しばしば決壊した為道が悪く「座頭転」という地名がありました。川沿いには各所に個人所有の水車を設置して水田用水を汲み上げていました。
学校の前を流れる不動川は、昔は水量も多く、洗濯をしたり、野菜を洗ったりして村人の生活と大きな関わりをもっていました。
村は同名の一族ごとに小さなかたまりで点在し、名前だけで、どこの誰だかわかるようなくらしが、数年前まで続いていました。

石川
石川は、六会地区の西南部に位置し、昔の明治村・小出村・御所見村の三ヶ村に接し、広い面積を有する村です。この地域は引地川が北から南に流れ、村を東と西に分け、東には天神社と山王権現があり、西には源義朝を祀った佐波神社と諏訪神社があります。河川改修、耕地整理が行われるまでは、湿田の多い水田地帯でした。
「小田原衆所領役帳」によれば、戦国時代には石川四人衆が支配し、後に石川六人衆(西山土佐、内島和泉・佐川図書・田城加賀・市川越後・伊沢伊織‥‥新編相模国風土記稿より)が支配するようになりました。藤沢宿から茅ヶ崎にかけての東海道を整備したのは、この六人衆だと伝えられています。
江戸時代は、旗本中根氏が明治維新を迎えるまでの300年間知行していたといわれ、自性院は、石河山自性院龍見寺という浄土宗の寺です。浄土宗を開いた法然上人に帰依した石川の禅門、渋谷七郎入道道遍がこの地に住んでいたことから石川と呼ばれるようになったと伝えられています。 石川とは、小石が多い底の浅い川という意味があり、この辺りは古相模川が作った相模野礫層の砂利が露出しています。昔は、石志加皮牟良と名付けられていましたが、後に石河村となり、1859年(安政6年)に石川となりました。大庭城関係の地名が村の中に点在していますがその一つ鍛冶屋庭という字名は、鍛冶屋をしていた家の周辺を指す地名で、この地に野鍛冶がいたという説と、大庭城主大庭景親の命で武器を造っていたという説があり、遺跡から多くの鉄製品が出土しています。平安時代に鋳造された古銭も出土しています。
昭和52年、引地川沿いに県立藤沢北高校が開校し、対岸は桐原工業団地となり、区画整理が進められ、昔、引地川沿いに水車があり、米ひき粉ひきが行われていた様子を想像することはできないでしょう。

西俣野
昔は大庭御厨俣野郷 [伊勢神宮に土地を奉納して「御厨」の名を受けて、他の豪族の侵入を防いだといわれています。御厨の範囲は、東が俣野川(境川)南は海、西は神郷(寒川郷)北は大牧崎(?)]で、西俣野(現在藤沢市)、東俣野・上俣野(現在横浜市)の三村が包括されていました。 俣野とは、一筋の川を挟んで両方に分かれた野原、股になった原野という意味があり、地形が同じところから名付けられたようです。
また一方で、俣野郷の領主、俣野五郎景久の名から俣野と呼ばれるようになったともいわれています。石橋山合戦(1180年)で、兄の大庭景親(平家方の大将)に従い、源頼朝の軍勢と戦った俣野五郎景久のことを「曽我物語」の一節では「色は浅黒く、身長は六尺二寸(1.9メートル)」と書かれています。相模の大番勤めで京都へ上り、日本一番の名を得た相撲取りであったようです。
西俣野は史蹟が多く、特に小栗伝説に因んだ地名が残っています。
ー小栗判官は京都の三条に生まれ、常陸国(茨城県)小栗に住み笛の名手でした。故あって相模国藤沢宿及び俣野村に来て、当地の御所ヶ谷に住む豪族横山大膳の娘照手姫と恋仲となりました。それを怒った大膳が、酒宴の席で酒に毒を入れて殺し、小栗塚に埋葬しました。ところが小栗は餓鬼阿弥となって、土震塚から出て来たといわれています。土震塚というのは小栗が土の中から出て来て、体についていた土をとったことから、この地名があるといわれています。小栗塚・鬼鹿毛(荒れ馬の名前で小栗が静めたといわれています)・土震塚といった地名が今も残っています。

西俣野 地域伝承
西俣野の閻魔堂に「小栗判官照手姫縁起絵」が江戸時代から伝承されています。
現在、1月16日と8月16日の年2回、閻魔大王の縁日に絵解き話を語る会が、花応院で行われています。
明治42年の耕地整理事業や、昭和7年の暗渠排水事業によって、川と森林に挟まれた肥沃な田園地帯となりました。二毛作が行われ、近年はハウス栽培が盛んとなり、トマト、キュウリ、キャベツが作られ、湘南レタスは、この西俣野が主産地です。

*六会の歴史は、「むつあい」(六会小学校創立百周年 記念誌)より転載させていただきました。


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湘南台アーカイヴの矢部さん


湘南台の街からB-29(アメリカ軍の爆撃機)の編隊を眺めることが出来たり、遠く、横浜の街が爆撃で燃える煙が見えたり、今日では、想像の出来ない日々がありました。そして、戦後、農地改革やいすゞ工場での勤務。今日は、ディープな湘南台の戦後史をお聞きしたく、矢部さん宅をお邪魔いたしました。


― 矢部さんは何代目になるのですか?
●矢部さん 八代目です。
― この辺では八代続いた家と言いますと、矢部さんの他にはありますか。
●矢部さん この辺ですと、青木さん、河合さん、向こう側に行くと、都筑さん、野渡さん、多摩大の方に行くと、小泉さん。あの辺までが円行地区だからね。農協の本店がある裏が円行地区だから。川のこっち側に30軒、川向こう側に30軒が農業を専門にした農家です。この辺は田んぼが少なく、畑ばっかりだからね。
― 昔は何を作っていたんですか。
●矢部さん 昔は養蚕で蚕ばっかりで、親父の代で麦やさつまいもを作っていました。さつまいもでも、でんぷん用の芋なんです。六合農協が経営するでんぷん専用の工場があって、でんぷんを作っていました。小学校から農業学校に入って、各学年は一クラスしかなく、30人くらいしかいない学校だったの。高等学校までだから6学年あったんだね。長後の町をみんなしてリヤカーを引いて、残飯を集めて豚の餌にしたり、豚を増やしたりという管理をしていました。
終戦後は、農家に働き手がいなくて、学校が農地を借りて、生徒がみんなで麦を作ったりしていました。だから、午前中だけ勉強をして、午後、畑に行って農作業をしていました。小学校6年までは、六合小学校だから、六合近辺に友達がいて、その後、職産学校だから、高座渋谷、和泉、飯田、中田とか綾瀬の方の人が集まって来るから、結構同級生がいるんだね。
― 矢部さんはお幾つですか。
●矢部さん 75。後期高齢者だよ。
それで、中学を卒業すると、この辺は畑だから、10年の間、畑仕事をしました。この間に、先輩たちに仕込まれながら、牛を使って、畑や、田んぼを耕していました。畑を耕す競技会があったんです。藤沢市の大会とか神奈川県の大会で牛を連れて海老名まで行きました。今で言うと、30分か40分の制限時間で、100坪か150坪を耕す競技でした。17、8歳の頃は結構行きました。
― 牛を使って畑を耕すというのは、日本の農耕の歴史の中でも最後になるのでしょうね。
●矢部さん ベトナムやタイで今でも牛を使って農耕をしているのを、テレビで見て、俺も昔はやっていたって思い出します。
湘南高校の裏とか、水道局のところは牛の田んぼだったね。
― みなさん牛を飼っていたんですね。近藤牧場ってありましたね。
●矢部さん あの人は、藤沢の川奈で牧場をやっていたんだよ。やっぱり今の湘南台と同じで、開発されて人口が増えて来て、こっちに来たんだよ。それからこっちも人口が増えてきて、10年、15年でやめているけどね。当時は100頭くらいの牛がいたんだよ。
― そんな時代がありましたね。のどかでした。その頃までが昔ながらの湘南台でしたね。
●矢部さん 俺が小学校を卒業したのは昭和26年か27年くらいだからね。終戦の年は、小学校2年生くらい。横浜の空襲を良く覚えています。家の方から空襲の煙が良く見えました。


― ご兄弟は何人いられるんですか。
●矢部さん 7人です。
― みなさんご健在ですか。
●矢部さん 弟が一人亡くなったので、6人います。一番上が、86歳。一番上と、一番下で20歳も違う。俺はちょうど真中。上が三人女だからね。下が、男二人と、女二人。
― 長男なんですね。
●矢部さん 昔だからね。おねえちゃんばっかりだしね。おねえちゃんがお嫁に行っちゃうと、おばあちゃんと親父だけじゃ百姓をやっていると、おはし(お金)ができないのでね。上のおねえちゃんが嫁に行った後4、5年、結婚するまでは、朝、朝飯をかまどで焚いたりしていました。昔は、母屋と、火を焚く所は別にありましたからね。
― もとからこの場所ですか。
●矢部さん 家はもっと下にあったの。前の道路は変わんないけど、家は今の庭にあったの。区画整理に入ってはいなかったんだけど、まだ家を建てて20年くらいだから、もったいないから解体しないで、後ろに引いて移動をさせるというので、移動をさせた。自分の金でやったの。庭の植木も全部移動させた。
― 区画整理をした時は、大変だったんですね。
●矢部さん そうだよ。大変だった。だから、移動をする時は、3ヶ月くらい円行の方に引っ越していたんだよ。その間にこの家の工事をしてもらってね。その時のビデオを撮っていたんだけど、この前久し振りに見たよ。よいとまけをしながら、家を引っぱっていた。
― 懐かしかったでしょ。
わたしたちは、区画整理を終えた後にこちらに引っ越して来たわけですが、いろいろ区画整理は大変でしたか?
●矢部さん 絶対に区画整理をやるもんじゃ無いという人と、区画整理をすべきだという人がいた。減部制の区画整理だから、結構反対の人がいたね。それでも2000坪くらいの土地は残っていたから、我慢をして土地を提供した。その時は、湘南台の駅があんなに立派になるとは思っていなかった。
― 区画整理はいつ頃行われたんですか。
●矢部さん もう50年以上前だよね。
― 一代決心でしたね。


●矢部さん いすゞに売っても、一反で100万円だからね。わたしはいすゞに無条件で働く事ができるからね。はじめは、大森(東京)まで行ったんだよ。あそこに工場があって、本社がすぐそばにあってね。そこまで朝通勤するというので、家を6時半だよね。3月から行き始めて、12月には湘南台のいすゞに行けるから、お正月からはこちらのいすゞに通勤ですよというので、10ヶ月くらい大森に通った。
― 車体の部分を作っていたんですか。
●矢部さん その頃、すでに自家用車を作っていたよ。百姓をやっていた人が6時半に起きて、ぎゅうぎゅう詰めで通勤して大変でした。
― お給料も良かったんですか。
●矢部さん ぼくなんかは臨時工で入ったからね。一ヶ月に半月づつ、2回給料日があった。当時、半月で1万5千円。夏はいやだった、暑くてね。殆どの人が途中で辞めた。藤沢工場に変わった時は、8時半に家を出ればよかったからね。それはよかった。結局30年、いすゞに勤めた。
―すごいですね。そうしますと、農業はあまりしてなかったんですね。
●矢部さん そう。勤め始めて1年後に工業団地が出来てきたから、1年間だけ畑をやったね。翌年から、工業団地の整理が始まったから耕す事が出来ない状態になった。結局、残ったのは、田んぼだけ。田んぼの植える頃は、朝、田んぼに行って、植えてから仕事に行った。定時間で帰って来るから、それからまた田んぼに行った。
― 振り返って見ますと、矢部さんは農業というより、いすゞにウェイトがあったんですね。
●矢部さん そうだね。いすゞに行って、サラリーマンになってからは田んぼだけで、畑はやっていなかった。
それで、湘南台の方は、減部で土地が少なくなったから、反対をする人が多かったけど「道路が出来て、便利になるから土地もグーンと上がるからいいよ」、って言っていたけど、実際に東側の湘南台は、マンションやアパートが出来、開発が進んだ。
― ここ20年くらいのことですね。
お話が、今日の湘南台に戻って来ました。湘南台といすゞという、戦後の湘南台の中心的な話をお聞きできました。ありがとうございました。

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湘南台アーカイヴのビック錠さん


  今回は、湘南台在住のマンガ家の登場です。いつもは湘南台の街おこしの集まりでお会いする顔馴染みではありますが、今日は、ビック錠さんのお仕事についてお聞きするということで、楽しい時間を過ごすことができます。それでは、ドアのチャイムを押してみます。
(聞き手・星谷けい子)


― 湘南台の町おこしでは活躍していただいていますが、地域に対してご熱心ですね。
●ビック錠さん 基本的には人間好きなんですね。仕事柄、人との付き合いが多いんです。大阪生まれの大阪育ちなんです。
― 大阪のどちらですか?
●ビック錠さん 京阪沿線なんです。旭区って言うんです。終戦の一日前に空襲にあっているんです。6歳の時です。本当は大阪の中条の裏に大きな兵器工場があって、そこを狙って来たんだけど、その日、風が強くて、うちらの方に飛んで来たんです。
― だいぶ焼かれたんですね。
●ビック錠さん 2、3軒隣りまで焼けたのかな、うちは残ったんですけど。焼け野原で、子供時代は遊び回っていました。
ー 湘南台に来られたのはいつ頃ですか。
●ビック錠さん もう40年くらい前です。大阪に東京オリンピックくらいまでいまして、その後に来ました。三島由紀夫割腹事件の頃ですね。はじめは本鵠沼に2年程いたんです。
― この場所が分譲された時ですか。
●ビック錠さん 分譲された後です。駅が出来てすぐ後だったんです。田舎でちょうどいいなぁ、と思っていたら、こんなになっちゃた(笑)。
― 回りに何にもなくてね。
●ビック錠さん そうそう。何にもなくて。
― その頃は、もうマンガを描いているんですか。
●ビック錠さん 高校2年の時に、貸本マンガの時代があったんです。川崎のぼるも同じくらいに描いていました。今日の漫画文化の基礎を築いたような時代です。その頃、高校2年生の時に描いていたんです。それが今の天皇陛下がご結婚された時に、テレビが全家庭に普及して、そうしますと、貸本屋さんがどんどん潰れていったんです。
で、貸本漫画を描いていた連中は東京に引き抜かれていって、僕はグラフィック・デザインの方に興味があって、友達もいたので、大阪の電通でアルバイトをやっていました。
それはマンガはマンガなんだけど、風刺マンガとかに興味があってね。そこで2、3年やっていたんだけど、またマンガを描きたくなって、ちょうど大人向けのマンガが流行り出したんです。
「ビックコミック」とかの雑誌が出て来て、そこで新しい人材が出て来て、それまでのマンガ家とは違うタイプの、それで面白そうなので、大阪から初めて出て来たのが藤沢なんです。
結婚して大阪に事務所を持っていたんだけど、それを畳んで来たんです。
大宅壮一さんというマスコミの帝王が東京マスコミ塾といいうセミナーをやっていたんです。それに入りたくて、またマンガを描きたいというのもありまして、本鵠沼に引越して来たんです。
でも3、4ページのマンガでは喰って行けなくて、諦めて大阪に帰ろうかなと思っていた時に、たまたま「少年キング」の編集者から「貸本漫画を描いていたのなら、ストーリーマンガを描けるでしょう」って言うから「描けるよ」って言ったの。ストーリーマンガってページ数があるのでね(笑)。30ページくらいあるから、また喰えるようになった。
それで「少年マガジン」で「釘師サブやん」っていう原作者牛次郎さんのマンガを描かないかといわれ、描き出したんです。それがヒットしてね。
それからですね、まともに生活が出来るようになったのは(笑)。


― それからはお忙しくなったんですね。
●ビック錠さん そうですね。それからは一人じゃ出来ないから、アシスタントを使ってね。湘南台に来た時に、ちょうど今の湘南台幼稚園がありますでしょ、その隣りに、カルフォルニアの捕虜収容所みたいな平屋の同じような建物が建っていたでしょ。そこの一つを仕事部屋にして、結構そこでやっていましたね。
― 毎週、毎週ですからね。
●ビック錠さん そうそう。それで若いアシスタントの健康の為に、仕事場の前で相撲を取っていたんだけど。そこにおまわりさんが二人来て、近くに泥棒が入ったっていうことで対応していたら、仕事場まで入って来てね、取材に行った時の写真のフイルムまで調べ出すから、それ、どういうことですか、というと止めたんですけど。当時は、学生運動もあったりしていたので、そういう連中に間違われたんだね。
― 日中、男の人がぶらぶらしていることが怪しいという時代で。
●ビック錠さん 長髪だったり、ひげが伸びていたりで、うさん臭いよね。いまだにそうだけど。夜、自転車でうろうろするじゃない、そうするとよく尋問に引っかかるんだね。こないだ、参考のために、何で僕だけ引っかかるの。何か目安でもあるのって聞くと、それはありません、自転車の人は誰でも聞いています、って答えたけどね。それで仕事は何ですかって聞くから、漫画家だと言うと、興味を示して、立て続けに聞いて来るおまわりさんもいたけどね(笑)。
― 湘南台公園があって。
●ビック錠さん 湘南台公園もなかった。今のホンダが、以前はレストランで、アシスタントとお昼を食べに行っていました。それでマネージャーと知り合いになって、そのレストランの野球チームとうちの野球チームと試合をしたりしていました。
― 野球のチームが出来るくらいスタッフさんがいたんですね。
●ビック錠さん そうですね。そうでもないとあのような週刊誌は出来ない。 
― 全盛期ですね。
●ビック錠さん あんなのは若い時でないと出来ない。肉体労働みたいなものだからね。


― 猫ちゃんが帰ってきましたね。
●ビック錠さん 猫も当時は野放しで飼っていたんですけど。猫はいろいろなものを捕まえては持って帰って来るでしょ。その捕まえたもので季節感を感じたりしていました。例えばトカゲだと、もう春だね、とかね。一時、6丁目、7丁目界隈はうちの猫の毛並みばっかりでね(笑)。
― オスだったんですか。
●ビック錠さん オスがいたんです。だから毛並みが似たような猫ばかりでね。一大ファミリーだったんです。ある時、庭を見ていたら、お腹が大きくなった猫がいて、今夜くらいに生まれるんじゃないか、って言っていたんだけど。押し入れにダンボールを敷いて準備をしていたんだけど、みんなが夜中に仕事をしている時に、みんなの前で子供を生み出したんです。アシスタントは、母親が子供を産むっていうのはすごいと感動して、翌日、母親に電話をしていました。半年も電話をしなかったのに、「ありがとう」って電話をしていました。
― マンガ家を志す方が弟子にして下さいという感じで、地方から集まっていらっしゃるんですか。
●ビック錠さん いろいろな地方から来てました。
― 寝泊まりをしながら。
●ビック錠さん はじめは寝泊まりをしていますが、少し経つと近くにアパートを借りたりしていました。
― みんなで食住を共にして。
●ビック錠さん 相撲部屋みたいです。うちの女房が大変です。三度三度飯を食わせてね。
― この辺りは境川と周りの風景が、何か昔の風景のようで、いいですね。
●ビック錠さん この辺は残っていますね。
― どうですか、長く湘南台に住んでみて。
●ビック錠さん 田舎が残っているというのが好きでしたね。結構歩き回りましたよ。川の向こうが戸塚でしょう。向こうはもっとすごくて、森があります。昔の風景があるというのが好きですね。
― ありがとうございました。
(注・ビック錠さんとのお話はこの後、一時間近く続きました。紙面の都合と、話のテーマがニューヨークとジャズになりましたので、違う機会に掲載をさせていただきます。湘南台の巻は、以上になります。楽しいインタヴューでした。)

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